偶然の産物
新しいものをつくるうえで必ず自分の意図と意図していない偶然の産物的なものがある。
自分の意思をどこまで作品に落とし込めるか、またはそもそもの意思や思いを持つことや表現の難しさもあると思う。
自分にある程度の蓄積がないと表現はできない。
蓄積の種としては2つに分けることができて、1つ目は、自分のモノニシタ蓄積、2つ目は、自分以外のものから形としてだけもらった蓄積である。
自分が表現するときには、2つ目の、自分以外のものから形としてもらった蓄積だけで表現はしたくない。
せめて自分なりの解釈をしてから表現をしたい。
自分なりの解釈をすることはすごく疲れることだと思う。
そのタイミングは作品を作っている時でもいいが、作る前や後でもいいと思う。
ちなみに作品を作っている時は考え続けるのが大変なので、どこかの到達点で足を止めて自分を納得させたくなる。
作品を作ると言うことを仕事にするならばお客さんの目の前では時間をかけるようなことはしてはいけない。
だから、それも普段から蓄積しておくのだろう。
昨日、花を活けた。
花を活けているときは、考えずに作った方が良い場合がある。
作りながら、どんな情報を引用して作品にしようかなと思った。
自分のイタリアでの経験、見た景色、インスタグラムで花道家が活けてた作品などどこからでも、引っ張ってこれる。
しかし今回はクライアントワークで無かったので自分が思うままにつくった。
それがすごく大変なことだった。
人は"制限がある方が良いものを作る"というのはあながち間違いじゃないし、その方が楽である。
しかし制限がある上でのデータの引っ張りどころ、表現方法というのはそれぞれの蓄積に依るしそれがその人の実力だと思う。
(また逆接で)しかし、本当にすごい人は何もないところや制限のない終わりのないところで考え続けられ表現し尽くすことができる人なのかな。
創作活動をしたときの区切りどころってすごく難しいな、って思う。
自分が好きじゃない終わり方は誰でもしないと思うけど、作品の完成度としては70点くらいいってたら100点じゃなくても妥協したくなってしまうと思う。
難しいのは、その時に100点を出せなかった、満足ができなかったとしても、ある程度時期が経ったり、一息ついてその作品を見た時に「意外といいかも」と思うことである。
そしてまた、その意外といいというのも、人間の性質としての行動優位性や言い訳をすることか、偶然の産物かはわからない。
偶然の産物という言葉に対して我々は良いイメージを持つが、捉え方を変えると、自分の経験、知識、表現力が不足していたため偶然になってしまった産物、という意味にもなる。
感覚的に作ることや委ねることによる偶然の産物は神がかった作品、新鮮な作品、理屈抜きで心に響くものが多いが一歩間違えると酷いことになるのかな。
軸を決めて、考えすぎずにどんどん作っていくのはものすごく楽だけど、作る前の蓄積をしておきたい。
そしてその蓄積の期間が今だと思う。
だから色んなものを見て、感じて、それを自分の解釈をして吸収していく。
もちろん他の考え方も聞きながら。
自分を身失わないように。
そろそろ話が終わりそうだったんだけど、今思い出してたのは師弟論。
習い事、芸事など修行をする時にはまず、自分を亡くして徹底的に真似をする。学ぶは真似ぶからくるように。
守って、破って、離れていくように。
恵林寺の古川老師が仰っていたのも似ていて「自分が弟子を育てる時は、その人の色を徹底的に抜く、脱色するかのようにその人の個をなくすような修行をさせる。 そしたらその人がその人でなくなるようであるが、そこで滲み出てくる色がその人でありそれに気づいたら弟子として卒業させる」というような感じであった。
なので、自分で考えることも重要であるが、師というものを見つけて徹底的に真似をするということをするのが一番の近道なのかもしれない。
楽な近道というよりもその方が利巧という意味での。
ものすごく尊敬をする師を見つけたら自分を失くす、いなかったら考えるということで今回は結論が出た。
そういえば花を6時間ずっと活け続けたら植物の見え方が変わってきたなぁ。
表現する当事者になってみると解像度が上がるなぁ。 ってことで
バイバイ〜