庭を作るということ。
庭を作る時、
禅寺なら、そこの1番偉いお坊さんがそこで座禅を組んで一つの石組、植木から学びを得る。
学びを得るにふさわしい庭を作るということは、①その人自身が究極に悟っていて物事を考えた上で庭を作るか。
②お坊さんが汲み取る学びを作者自身が知らなくても、自然や神からのメッセージを素直に表現する人、表現者、純粋な媒介者であればいいのかもしれない。
お坊さんやお客さんが作者の意図以上のものを想像し、学びに変える力も重要だと思うけど、庭師もそれなりの覚悟や努力が必要であると思う。
と、北杜市のお客さんのところで伐採の仕事をした昼休みに近くの浄居寺の裏庭にて考えた。
『夕方に追記』禅僧など極地に達した人は、むしろ域に達しているかどうかもわからない庭師に庭を作らせるより、形のないものに対して目を瞑ることによって悟りを得るのだろう。
ということはお寺の庭はただの観光客または檀家用ということかな?