hironokangaegoto

雑記帳的に自分の想い、考えていることを吐き出していく

なんか寂しい

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昔通ってた小学校、その周りの狭い裏路地、そこをボロいチャリで駆け巡ってた小学校時代 今はその合間も少なくなっていって綺麗な区画分けされた住宅 なんか寂しい

やっと時間の流れを感じる年になれたんじゃないかなって思う。

 

だからやっぱり未来の景色を作っていかないと

これでいいのだ

あぁ、やりたいことが多すぎる でも何かって言われるとその場で全てが出るわけではない。
大学の授業中に紹介された海外の造園やルイスバラガンによる建築作品などにも「うわぁ、いいなぁ こんな空間作ってみたいなあ」って思うし、今の自分との距離を認識してしまって悔しかったりする。いや、しっかり悔しい。

 昨日はサークルの良き友と彼の家で4人で彼の美味しく気持ちのこもった料理を食べて、飲んだ。美味しいウイスキーを飲んだり、2年ぶりかくらいにストロングゼロを飲んだり(好きじゃないけどモンスターのピンク色のを1:1にして飲んだらぐいぐいいけた)して、3時くらいまでの椅子に座って楽しく喋っていた記憶があるんだけど、今朝、目覚めたら千住博の絵画の前、机のそばのフローリングで横になっていた。記憶が飛んでいるのは珍しい。起きたのが8時20分だったためすぐに昨日持参したウイスキーとジンをハンドバックに入れてそのまま道玄坂から出ているバスに乗って大学に行った。ノートとペンよりも頼もしい所持品だったなあ
 まだお酒も抜けていなかった。彼の家は渋谷のいい住宅街にあるので大きな邸宅などを見ながら不思議な気分でいつもと違う場所から通学だ。昨日の夜に集合する時、道に迷ったんだけど5m位の高い塀のある大きく高級な住宅というより邸宅がいくつもあった。ちょっとだけ見えた大木の松と建築に付随する構造物は内藤廣さんと中村外二工務店で作ったのか!と思えるようなアーチ状のものも見えたし、その近くの木造の現代建築に御簾が掛かっていて全体の雰囲気に品があった。そこの家は外壁が3mほどある花崗岩の巨石が積まれていたりして、ああ、こんな空間をつくりたいなあと心から思った。

 

 本題を書こうと思っていたのに昨日思ったことを書き始めたら意外とそれだけで満腹感がでてもう眠くなってきてしまった。

まあ、今は昼食後で眠いだけなんだけどね。

そして寝て、起きて下北沢に友達のライブを聴きに行った。なかなか生々しかった。

 

書き始めると止まらないので今回本当に書きたかったことを書こう。

 

冒頭にも言ったんだけどやりたいことが多すぎる、そして情報が多すぎる。やりたいことが多いのは結構なんだけど、情報が多いことに関しては危機感を感じている。知識と体験がセットになっていないので自分が離れていっているよう。
本を読むことは知識という枠に入りつつもそれに感情が伴えば体験になるし、いい音楽を聴いたり、庭や建築、美術館に行くことも体験になる。だけどどこか置いていかれるのはもっと自分の手を動かすことができていないからだと思う。
そういう意味では大学の授業の課題にしっかり取り組むことも一つの手だし、去年みたいにガーデニングショーに出展することもそう。まあ課題は多いし表現の方法もまだ知らないからスケッチなりしていくのがいいんだろう。

 

また知らぬ間に話が逸れた。

 

ええっと、

言いたかったことは、 自分のライフスタイルは守る ってことだね。

 

年始になって伊勢神宮参拝に行ったこともあってバスや電車の中で今年はどんな一年にしようか、と考えていた。全体のこととしてはこの国が良くなってほしいことで変わらず。自分のことに関しては曖昧な感じでしかなかった。
その体験ときどきで感じることや胸に決めることがあるからよくわかんなくなってしまう。
そう思って腑に落ちたつもりになってまたただ楽しいで進んでいる感じ。どこか決めることは決めておいて楽しまないとなあ。

カッコ良い生き方は、いきなり面白い人に会った時にちゃんと自分のしていること、してきたことに誇りを持てる人とか 感動して自分も人を感動させる人になりたい 芸能ごとや伝統的なことにお金を不自由なく使える人になりたい。庭師になりたいけど、縛られなく、数寄人としてしっかり稼ぎつつも自分の家をこだわって建てて、いい庭と空間を作っていく行くはそれが美術館になって収蔵品を公開できていたら最高だな。 自分の好きなものを集めたい。昔の形の良い謂れのある灯籠だったり、茶碗、浮世絵、雑貨などなど。 やっぱりモノづくりは素敵なことだしそれをしっかり評価して対価を十分に払える人になりたい。そして今まであり続けてきた良いものを後世に繋げたい。よく文化財とかも維持費が無いと言われたりするし、日本の経済を考えるとこれから流出、消失することだって十分にあり得る。そう考えるとそれを残していくような制度にも携われるようになりたいし、お金をしっかり稼ぎたい。
たいたい 言っててもしょうがないから既にそういう自分であるって感じで生きてこ、この一年。

 

今話したことは自分の大きなライフスタイルの話だったね。

 

まあ感化されることが多くてすごいなあと思うことが多いと自分がよくわからなくなってしまう。けどそんなこんなで楽しいことばっかやっててすごく楽しい。語彙力少なくてバカみたいだけどいい体験を色々させてもらっているよ。

 

でもまあ振り返るというか楽しい余裕をもっていたい。だからこそライフスタイルや自分の時間を大切にする。

 

それを思ったのも今日1、2限が終わってからまだちょっとして二日酔いでご飯もたくさんたべようとも思わなかったからしばらく庭の本を見て、読めたかなとおもったから家に向かって歩き始めた。家に帰ったら軽く麺でも食ってればいいか と思ったんだけど、ふと思い出したんだ。

「あ、そういえば家の近くにリーズナブルでこじんまりしたイタリアンあったな」と。

それで思い立ってランチ営業に飛び込んだ。

去年もお店の前を通った時に サルシッチャとフキのパスタ と書いてあったりして「うおぉおー これは絶対いいだろー」と思ってはいた。
店内を入ると、トマトのパスタの匂いがして全体的になんかイタリアに帰って気分がした。

カウンターに座った。

正面を見るとステンレスのキッチンはきれいだけど、店主はシャツで火力強めにパスタをつくって棚にある皿は小さなナポリの道化師とともに雑に、あるように置かれていた。

見てくれを気にしているようには思えない肩の抜けた感じがなんか心にやわらかく伝わってきた。トマトソースの味と匂い、テーブル赤ワインも飲めればいい、というような雑な感じでイタリアの家族を思い出させた。
あたたかい感じ。なんだろう、料理でもワインでも、これを低温調理してから油でさっと揚げて仕上げは繊細な花の香りのするソースをかけて仕上げました、とか このワインはどこどこのなになにで年代は〜 とか この二つのマリアージュが、とかそんな情報よりあるものをあるように食べたりすることは自然で肩の力が入ってなくていいなあ と

お酒のサークルに入っているぐらいだからいろんなお酒に興味があるんだけど、でも考えてみたら心の底から興味はあるのかな と

イタリアに行っていた時のようにいつもテーブルワインでオリーブオイル、塩、胡椒、トマトソース、山梨のおじいちゃんと会って猪鍋やありものでほうれん草の煮浸しをつくってくれたり、そんな感じがいいんだな と

もちろんこだわって作られたお酒とかが好きで色々広く手を伸ばすこともあるし美味しいなと思うし好きなんだけど、それはライフスタイルじゃ無いなって。

イタリア人はフランス人のことを悪く言う。北イタリアの人は南イタリアの人のことを悪く言う、南イタリアの中でも隣の県のことを悪く言う、県の中でも隣の村のことを悪く言う、 それでいいんだよ。

悪く言うんだけど、心の底からじゃなくてイタリア全体としては根っこがつながっていて、何かのタイミングになるとちゃんと団結する。

ある意味合理的で自然だと思う。地元の特産品もその暮らしを守れるし、誇りも持てる。
手を広げない、他を批判するのもどこかでは「しっかり比べたら(一般的には)負ける」ということを知っているからなのかもしれない。

自分がフランスワインにしっかり手を出さないのは、イタリアを推したいのもあるけど、ただフランスに確かに存在する美味しいワインを知ってその沼にハマってしまったり広くなって面倒になるからっていう理由もある。

ローカルで(が)いいじゃん、

生まれたものを最小限の手間でよさを引き出して近くでそのままいただくのがいいよね。

それには精神的な近さって意味もあって、イコール ひいき ってことかな、エゴだし多様性とかよくわかんない平和な言葉でならされちゃだめな言葉で表せるのかな。

その方が愛がある。落ち着く。

 

そんな愛とかあったかさをそのお店で感じたし、なによりパスタが美味しかったからCuoco(コックさん)にいろいろ話したら、「いいよね やっぱり」とニコっと笑ってくれて1人の自分に構ってくれたとさ と

落ち着くところにその時その場所に戻れたから、パスタをすすりながら、 ああ、これがいいよな これだわー今年 色々大事なことがあるけどこれを自分の中でしっかり落とし込んでいこう。って思った。

 

食後にエスプレッソを頼もうかと思ったんだけど、エスプレッソまで頼むとさすがに金欠だし、家にあるマキネッタでつくるエスプレッソの方が絶対美味しいだろう と、また勝手な偏見、ひいき、独断をして家に帰ることにした。 (今年はお茶、茶道も生活に取り込みたい もともといろんな国のいいところを入れて自由度高くお茶をのむことをしているし)

 

帰宅後すぐにマキネッタに水と粉を入れてバーナーにかけ、ベランダの洗濯物を取り込んで、外の椅子のためのスペースをあけた。

 

すぐに ッコー(ちょっと濁点気味)に音が鳴り、火を止め、エスプレッソを注いで、体に悪いだろうけど入れるとすごく美味しくなる甘党イタリア人方式に砂糖をぶっこんで、タバコを巻く。

 

そして太陽の下で一服。

 

これでいいのだ

 

 

二子玉川 帰真園 庭園感想

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流れの石組が上手、水の流れに対する石の据え方に理がある、そして源流部、中流下流最後の池までの流れの幅と水の勢い、それに準ずる地割と石組、植栽の密度が完璧に呼応していた。

石種も源流部の石は秩父の青石、池(海)に近くなるにつれて根府川石のように上品になっていき、舗装のパターンの切り替えにもストーリーが見られる。

個人的には、遠目から見ても園内でも目を引いた植物はマツであった。やはり空間や空気を締めて上品にさせる働きがあると思う。

マツがないと仮定して植栽種を見てみると平賀達也さんの植栽に似ていた。

広域の植栽では最近そのような傾向があると思う。それから脱するとしても自然の抽象化に反して奇抜になってしまうとは思うが、新しい形も作らなければならない。

自然界の滝3つや流れの種類3つを一つに縮景された視点場、書院からの景色も滝落ちが見えていて贅沢。

池側から滝側を見た時には反り立つ石に自然界に見た時には感じられる格好良さを感じた。

池の方、書院側は小堀遠州の意匠や京都の船着場でよく見られる矩形の石で留めていた。

書院周りの池も京都の雰囲気で迎賓館にも似ていた。

各視点場において、視点をフレームで切り取った時にどんな素材がどういうように見せたいのか、などの意図が見えた。

 

 

 

石橋の横にある落下防止スロープにも竹でカバーされてあったり、枡の隠しにも竹が使われていて全体的な完成度が高い。

川の中洲のような場所にある庭なため風の通りも良く、空は広く見える。

 


一つ思ったのはこの庭が500年後以降にもののわかる人に感動を与える庭か ということである。

バリアフリーで、園路もしっかりと整備されているためユニバーサルデザインではあるが、そのため大衆には受けいられるがコア層や心の底に感動や疑問、不思議な気持ちを残すような庭ではない。

将来、月心寺や、白砂村荘、、大河内山荘の裏露地、山梨の妙善寺のような不思議な力を持つ庭ではない。

どちらかと言うと帰真園の庭のタイプは無鄰菴のような明るく綺麗な庭なのだろう。

 


今までの日本庭園の手法や形式を現代に持ってきているため、ある意味では親近感、既視感もあり、且つしっかりと作り込まれている完成度の高い庭園であった。

 


このような流れを継いだ庭が現代に作られたことで将来の庭に携わる人間に安心感を与えられたと思うが、感動をや不思議な魅力を備えているとは思えなかった。

夢や不思議さを備えるロマンチックな庭を作りたいが如何んせん公共の庭となると難しいのだろう。

日本人の感覚?

今朝、大寒波によりちょっとの間雪が降るという予報があった、そのことを聞き一緒にいた一起が『雪が降るらしいよ!』と言っていた、そして外に出てぼんやり外を眺めていたら気づいたことがある。

日本人は年老いた人はそうなことが多いけど雪が降ること、秋の匂いがすること、葉っぱが紅葉すること、葉っぱが落ちて冬が来たこと、に敏感なんじゃないかなって思った。

 

しかも今回の気づきとして1番重要なのが"若い人も"っていうこと。

膨大でバラバラな情報による惑わされている、考えも多様化したこの世代でもinstagramや他のソーシャルメディアでそんなようなことを上げたりする。

 

イタリアでは、雪が降ったら、あぁ、雪が降ったのか、へー

雨が降ったら、雨が降ったのか、へー

という感じでただの現象として捉えているようで心に響いているような感覚がない。

そもそも気にも留めていない気がした。

 

でもなんとなく、他の国に比べて日本人は若い人でも季節感に敏感なのかなって思った。

海外みたく大雑把じゃないからなのかなとか、陰湿な国、農業社会であった国日本であったからなのかなって思ったらもした。

例外とか、この考えが正しくないかもしれないが、日本人の感覚としてDNAに刻まれているのかなとか思ったりした。

 

っていうのを外を見ながらおもった。

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雨に濡れている小鳥も何か感じさせてくれる。

鉢と植物

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鉢と植物、それは人にも転用できることじゃないかなと思う。

 

庭や緑空間を作るときでの鉢は最初に決まっているハードな部分で植物はソフトな部分。

ハードな鉢は、一回設置、施工してしまうと変えるのはとても大変なことになる。

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実際↑のコンクリの鉢は壊すことはコスト的にも容易ではない。

ソフトな植物は、気に入らなかったら木を抜いたり移植したりすれば変えることができる。

 

人間で例えた場合だと、今まで蓄積や何かがある人は鉢が可変で広く、しっかりしている。

その上の植栽はその人にとって自由である。

しかしその鉢の形や性質が固まってしまっている人であると、新しいなにかを作る時に絶望して、壊そうとしても恒常性が働いて妥協することになる。

そして一例として人間の嫉妬というのは、頑張れば追いつくというところでは発生しない。

ソフトな植物的なところでの差については嫉妬しにくいが、ハードな鉢的なところはどうしようも無い差があるため発生するのかもしれない。

 

 

と、まぁ適当に考えたのは最近老いを感じる様になったからである。

大学一年生とはいえ社会が近くに迫った状況で大人になると時間的、精神的制限が多いのだと感じ、かといって自由な立場な今もそんなに活動できていない自分を客観的に見た時に寂しくなる。

 

これは誰かや作品に刺激され、自分も何かしないとって思っていても行動できない虚しさと自己嫌悪に似ているとも思う。

忘れていいこと悪いこと

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街中に溢れている広告を一つデザインするとか、公園のデザインをすることとか素朴で美味しい料理とかって普段なにも考えずに日常生活を送っていたらどんな手間が掛かっているのか気づかない、し考えることもない。

そこでちょっと引いた側から意識を向けるとなんとなく「自分ならデザインできそうだなぁ〜、もっとカッコ良くならないのかな、食べ物だったら適当に出汁取って味噌入れるだけでしょ」みたいに簡単に思ったりする。

 

でも実際に、自分が0から作る、となると物凄く考えるし表現するのも苦労する。

 

表現者や当事者になって初めて見えなかった手間ひまの数に偉大さを感じるのだろう。

https://www.weblio.jp/content/amp/%E6%89%8B%E9%96%93%E3%81%B2%E3%81%BE%E3%82%92%E3%81%8B%E3%81%91%E3%82%8B

(余談だけど、"手間ひま"の手間は労力、ひまは時間らしい。 ひまってなんか軽いように捉えられそうで嫌だったのとひっかかったから調べた。)

 

おれはそんなすごいことできない、作れないって萎縮してしまうと、いきなり街の中にある広告などが凄いなって思ったり、適当に作られた公園や味噌汁一つとっても色んなものがすごく見えてくる。

手間ひまに気づくことは大事なことだと思う。

その気持ちは絶対に忘れてはならない。

 

しかしそこで萎縮してしまってはいけないと思う。

 

やってやるって思いたい。

 

そこで、重たい腰を起こして作品に取り掛かるのではなくて、初心の "できるんじゃね?"とか"出汁取って味噌入れるだけでしょ?" みたいな感覚を忘れずにいたいな。

重たい気持ち(場合によってはアリ)が作品に入ってしまいそうだしね。

 

 

偶然の産物

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新しいものをつくるうえで必ず自分の意図と意図していない偶然の産物的なものがある。

自分の意思をどこまで作品に落とし込めるか、またはそもそもの意思や思いを持つことや表現の難しさもあると思う。

自分にある程度の蓄積がないと表現はできない。

蓄積の種としては2つに分けることができて、1つ目は、自分のモノニシタ蓄積、2つ目は、自分以外のものから形としてだけもらった蓄積である。

自分が表現するときには、2つ目の、自分以外のものから形としてもらった蓄積だけで表現はしたくない。

せめて自分なりの解釈をしてから表現をしたい。

自分なりの解釈をすることはすごく疲れることだと思う。

そのタイミングは作品を作っている時でもいいが、作る前や後でもいいと思う。

ちなみに作品を作っている時は考え続けるのが大変なので、どこかの到達点で足を止めて自分を納得させたくなる。

作品を作ると言うことを仕事にするならばお客さんの目の前では時間をかけるようなことはしてはいけない。

だから、それも普段から蓄積しておくのだろう。

 

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昨日、花を活けた。

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花を活けているときは、考えずに作った方が良い場合がある。

作りながら、どんな情報を引用して作品にしようかなと思った。

自分のイタリアでの経験、見た景色、インスタグラムで花道家が活けてた作品などどこからでも、引っ張ってこれる。

しかし今回はクライアントワークで無かったので自分が思うままにつくった。

それがすごく大変なことだった。

人は"制限がある方が良いものを作る"というのはあながち間違いじゃないし、その方が楽である。

しかし制限がある上でのデータの引っ張りどころ、表現方法というのはそれぞれの蓄積に依るしそれがその人の実力だと思う。

(また逆接で)しかし、本当にすごい人は何もないところや制限のない終わりのないところで考え続けられ表現し尽くすことができる人なのかな。

 

創作活動をしたときの区切りどころってすごく難しいな、って思う。

自分が好きじゃない終わり方は誰でもしないと思うけど、作品の完成度としては70点くらいいってたら100点じゃなくても妥協したくなってしまうと思う。

難しいのは、その時に100点を出せなかった、満足ができなかったとしても、ある程度時期が経ったり、一息ついてその作品を見た時に「意外といいかも」と思うことである。

そしてまた、その意外といいというのも、人間の性質としての行動優位性や言い訳をすることか、偶然の産物かはわからない。

 

偶然の産物という言葉に対して我々は良いイメージを持つが、捉え方を変えると、自分の経験、知識、表現力が不足していたため偶然になってしまった産物、という意味にもなる。

感覚的に作ることや委ねることによる偶然の産物は神がかった作品、新鮮な作品、理屈抜きで心に響くものが多いが一歩間違えると酷いことになるのかな。

 

軸を決めて、考えすぎずにどんどん作っていくのはものすごく楽だけど、作る前の蓄積をしておきたい。

 

そしてその蓄積の期間が今だと思う。

だから色んなものを見て、感じて、それを自分の解釈をして吸収していく。

もちろん他の考え方も聞きながら。

自分を身失わないように。

 

そろそろ話が終わりそうだったんだけど、今思い出してたのは師弟論。

習い事、芸事など修行をする時にはまず、自分を亡くして徹底的に真似をする。学ぶは真似ぶからくるように。

守って、破って、離れていくように。

恵林寺の古川老師が仰っていたのも似ていて「自分が弟子を育てる時は、その人の色を徹底的に抜く、脱色するかのようにその人の個をなくすような修行をさせる。 そしたらその人がその人でなくなるようであるが、そこで滲み出てくる色がその人でありそれに気づいたら弟子として卒業させる」というような感じであった。

 

なので、自分で考えることも重要であるが、師というものを見つけて徹底的に真似をするということをするのが一番の近道なのかもしれない。

楽な近道というよりもその方が利巧という意味での。

 

 

ものすごく尊敬をする師を見つけたら自分を失くす、いなかったら考えるということで今回は結論が出た。

 

そういえば花を6時間ずっと活け続けたら植物の見え方が変わってきたなぁ。

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表現する当事者になってみると解像度が上がるなぁ。  ってことで

 

バイバイ〜