忘れていいこと悪いこと
街中に溢れている広告を一つデザインするとか、公園のデザインをすることとか素朴で美味しい料理とかって普段なにも考えずに日常生活を送っていたらどんな手間が掛かっているのか気づかない、し考えることもない。
そこでちょっと引いた側から意識を向けるとなんとなく「自分ならデザインできそうだなぁ〜、もっとカッコ良くならないのかな、食べ物だったら適当に出汁取って味噌入れるだけでしょ」みたいに簡単に思ったりする。
でも実際に、自分が0から作る、となると物凄く考えるし表現するのも苦労する。
表現者や当事者になって初めて見えなかった手間ひまの数に偉大さを感じるのだろう。
(余談だけど、"手間ひま"の手間は労力、ひまは時間らしい。 ひまってなんか軽いように捉えられそうで嫌だったのとひっかかったから調べた。)
おれはそんなすごいことできない、作れないって萎縮してしまうと、いきなり街の中にある広告などが凄いなって思ったり、適当に作られた公園や味噌汁一つとっても色んなものがすごく見えてくる。
手間ひまに気づくことは大事なことだと思う。
その気持ちは絶対に忘れてはならない。
しかしそこで萎縮してしまってはいけないと思う。
やってやるって思いたい。
そこで、重たい腰を起こして作品に取り掛かるのではなくて、初心の "できるんじゃね?"とか"出汁取って味噌入れるだけでしょ?" みたいな感覚を忘れずにいたいな。
重たい気持ち(場合によってはアリ)が作品に入ってしまいそうだしね。