著者がそこにいる!
なんとなく本棚に並んでいる本。
自分が色々なことに悩んだり頭を動かしてる時、本の下を見ると著者の名前がある。
本を書くっていうのは相当な知識と根気がないと出来ないこと。
そんなことをやってのけた人がすぐ近くに本として並んでいる。
ははは 頑張れそう
鬼滅の刃 無限列車編
今日、鬼滅の刃の映画を見てきた!感想と気づきとかを忘れないように書いとこう。
まずは、鬼滅の刃を知る前から今日に至るまでを書いていこう。
2019年6月、10ヶ月間のイタリア留学を終え日本に帰ってきた。それから半年間は外部からの如何なる情報もシャットアウトして受験勉強をして、2020年3月にひと段落した。
その辺りから「鬼滅の刃」というワードをたくさん聞くようになってきて、コンビニでアルバイトをしている友人も「最近小さい子が店に来て”お兄さん!鬼滅の刃ありますか?”ってよく聞かれるんだよね」って話をしてきた。
他にも会社の先輩が鬼滅鬼滅というので、どうやら子供だけじゃなくて大人もハマっているということがわかってきていて、メディアでも、もう鬼滅の刃が盛り上がっているというのはもはや一年間海外にいて、半年間情報を得ていなかった僕でもわかることだった。
だから全体に流されるのが嫌いな僕は「そんな子供騙しのアニメに大の大人がハマるなんて日本人も低俗になったもんだ」(←これはかなり言い過ぎかもしれないけど)と、見てもいない”鬼滅の刃”に対してかなりの嫌悪感を抱いていた。どんなに流行っても俺はこのブームに乗っからないぞ!と思っていた。
この鬼滅の刃のイメージは三週間前までずっとあって、土曜日の夜二週連続でアニメが放送された時も「こんなもん」みたいに思っていた、、
けど!最近自分の尊敬してる人が鬼滅の刃からは令和の価値観が学びとれたり、重要なメッセージがある。一つの教材みたいなもんだよって言っていたので、それならば、と思いnetflixで公開されてる分を一気見して、その勢いで今日映画を見てきた。
アニメを見て最初に思ったのは、刀だとか血筋(代々鬼狩りをしていた)とかかなり少年心を掴んでいる王道の設定だなあ と。
でも鬼滅の刃の新しいところは、回想シーンが異常に多く、味方はもちろん、ここが驚きで敵!!でもしっかり鬼になった理由があったところ。しかもほぼ全て”家族”の問題だった(漫画は読んでないので断言できないけど)。
音をポンポン鳴らす敵は昔、全然認めてもらえなかったことだったり(これは家族のじゃない)、糸のやつは絆を自分から切ってしまってそれを再現することによって埋め合わせをしたかったりしている。
小さい頃にあったちょっとしたズレがきっかけで鬼になってしまうっていうのは一つの比喩で、現実世界でも似たようなことが沢山あると思う。
こんな感じで、学びとれるところは他にも沢山あった。
そして今回の映画。
感想としてまず言いたいのは、、煉獄さんカッコ良すぎる!!!!!!!!
アニメ終盤から出てきて最初はなんだこのキャラって思ってたけど、彼の回想シーンで過去を知って、現在柱ということも知って感情移入した上で戦って死んでしまった。
彼の母の言葉「弱き人を助ける人は強く生まれた者の責務です。」
からの「俺は俺の責務を全うする!ここにいる者は誰も死なせない!!」
と言い瀕死状態で戦っている姿がまさに”心を燃やす”状態でかなり感極まりました。
終わってからは、おれ最近アツく熱量高く生きれてないな、こんなにアツく生きてみたいなと思いました。
そして劇場で煉獄杏寿郎さんの母が言ったセリフを聞いて、受験時代に知った言葉である”noblesse oblige”というのが浮かんだ。
《「ノブレスオブリージュ」》身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意。
自分はそんなに身分も何も高くないけど、留学をしたり、休学をして知識を得させてもらっている。ということはそれを何らかの形で還元しないとな と改めて感じさせてくれた。
他にも、
このタイトルとそれを補足する形で映画を見ると、居心地の良いコンフォートゾーンを抜け出すことと共通してるかなと思ったり、それと関連するのが映画インターステラーで出てきた一つの詩
Do not go gentle into that good night.
Old age should burn and rave at close of day;
Rage, rage against the dying of the light.
【訳】
穏やかな夜に身を任せてはいけない。
たとえ老いても、終わりゆく日に燃えたぎり、怒るのだ。
怒れ、怒れ、消えゆく光に怒れ。
もあったなあ と
炭次郎が的に何度も夢を見させる術をかけられた時も何度も自分を切って目を覚まさせていた。
それが楽をしたくなる自分に鞭をいれるのと同じに感じて、アニメから学んでそれを生かしたいなあ と思わせてくれました。
ありがとうございました。
面白く、学びにもなる鬼滅の刃、漫画全巻買っちゃおっかな〜 というところで現在悩み中。
だれか持ってるだろうから借りよっかな!でもどうしよう、その人に申し訳ないかな、、借りるのは恥かな、、、、、、、 でも煉獄さんが僕にこう言ってくれる
借りることに
はいっ! 終了!
今回もこのブログを書いていて僕の表現能力のなさ を痛感しました!笑
小説でも読んで頑張ります。
休学期間折り返し地点
今はもう10月、今年の4月から休学をして6ヶ月、そして3月末まで6ヶ月。
ちょうど大学スタートまで半年なんだよね。
そんなタイミングで「得得三文会」という、朝と夜の1時間、誰かの話を聞いて知見を広めよう というコミュニティで発表する機会をいただいて一週間前にzoomで話してきた。
題名は「留学大学入学休学」で自分の今までのストーリーを語って、その線上で気づいたこと、学びなどを発表して、感想としては、まだまだ語彙力を含め話力が足りないことに改めて気付かされたのと、話すことでまた新たな発見があった。
かなり大事な発見は、自分にとって「考える楽しさ」を知ったターニングポイントはイタリア留学だったこと。
他にも、プレゼンを作ってる時に気がついたのは、
- 半年間43冊も本を読んできたけど、それを自分の実際の行動に繋げられたり、本の内容を覚えていることが自分では信じられないくらい少ない。危機感
- でもそれ(アウトプットしないと忘れる、読んでも行動しないと無意味)というのは、あんまり本を読まなかった頃から知っていたことだが、その時は実感がなかった。
内容を覚えていないことなどにマイナスな感情を抱いたが、それとは逆に冊数読んできて今実感できていることに「あー 自分もこう言う風に”自分の実体験”として語れるくらい経験したんだな」と思えることに幸せを感じている。 - プレゼンを作る過程での気づきだったり、自分を振り返る時間が一番重要で、形として発表することは二の次なのかなって思った。結果より過程ってのもわかった。
- プレゼンを作る前に「これだけは伝えておきたい!伝えないと後悔する!」ということをリストアップしてっから作るといい。
などがある。
今回の発表で伝えた「考えること」で、頭が冴え切る時間をもっと増やしていきたいな。
庭師としての外仕事は、日曜休み朝から晩までなので家に帰る時には疲れ切って熱量が無くなり、スマホやテレビに無意識に時間を使ってしまうが、そこは受験期に得た学びを振り返ってタイム・セルフマネージメントしていく。
受験期に書いていた記録に自分の癖を含め、学び方など全てが書いてあるから、それを一年経った今、復習して自分のものにする。
受験のときは毎日、本気で意識していたことも、時間が立つと忘れてしまう。
これを例えとして伝えると、
レンガを使って橋作りをしている、毎日毎日前に進んでいくけど、定期的に振り返るのが重要、しっかり積み上げてないものは戻って補修していかないと時間の川によって崩され、流されてしまう。
学びがなければレンガの工法(積み方)は変わらないまま、ずーっと進み振り返らなければ壊れていることすら気づかない。 最終的に、橋(自分の軸や学び)は短く脆く、時代と情報の川の真ん中に孤島のように取り残されて、精神世界で孤立してしまう。
婉曲表現としてはかなり言い過ぎかもしれないし、こんなこと書いている僕はみなさんにとって何者でもないのでお気になさらずに〜
良い1日を!
重きの置き所
最近これからの将来どうやって生きて行こうか悩んでいる。
お金稼ぎに必死になるか、目の前の幸せを拾っていくか この二つに。
7月8月の自分は完全に目の前の幸せを拾っていっていた、盲目に、
仕事をして家に帰り疲れていても早く寝るわけでもなく用のないsnsを開いてなんとなく充足感を仮の形で得ていたり、飲みに行ってばーっと騒いだり、楽しむことは悪くないことはわかっているんだけど本を読んだり、自己投資の時間を取ろうってなるとやる気が起きなくなる。
その日暮らし感が半端ない。
そんなこんなのくせに幸せになりたい、あれが欲しいこれが欲しいって言っちゃってる。
目の前のことに向き合うことは重要だけど、先のない目の前ってのはダメだと思うんだよね。たとえば指示されたことだけを考えて作業的に仕事をしたり、飲みに誘われて盲目にok!って言ったりとかね。せめて、「こいつらとまた素敵な時間を過ごそう!」とか思おう。
一つでも多く将来の自分につながることをしたい!って思うし。自己投資をせずに良い大人になってから「なんで俺の人生はこうなんだ、低収入で家族も十分に養えないし、生きがいがない、、」みたいな。
結局行き着くところは、今の社会は資本主義社会、資本が絶対だということで。お金を得ることが幸せかどうかかはわからないけど、それを追求しないと生きづらいことは確かだ。
今の自分がバイトをして時給計算のバイトをしたとしてもそれは20万円なら20万円で変わらないもの。 だけどそうじゃなくて、必死に努力をして毎月20万円入ってくるような事業を作り上げたら、それは単なる20万円じゃなくて一つの会社として5年計算でも1800万円入ってくるようになる。
機械的に苦労して数字通りでしかないお金を得るくらいなら時間とエネルギーを使って楽したいな〜 楽っていうのもあるけどそれ以上にそうやって何かに取り組むのは絶対楽しいと思う。超大変そうだけど。
その大変さっていうのは、10代20代みんなが遊びに行ったり、飲み行ったり、楽しんだり少しだらけている時に我慢をして努力すること。
それで得た報酬的なものは10年20年後に来たとしても恨まれる筋合いはないと思う。学校で言うと成績のいい人があいつはいいよなってその人のバックグラウンドを意識せずに言われるのと一緒で。
今は、経営でもエクセルでもなんでもスキルを身につけて自分という資本の市場価値を上げたい。
若い時のお金なんて所持しててももったいないから早めに自分に使って循環を早くしていきたい。紙を正確に二等分、それも100枚やるという単純作業の時、切れるナイフを買っておけば時間もエネルギーも少なく済んでまた次のことができるし。
毎回必ず2時間はかかる仕事を毎日その時間かけてするなら、10時間必死にどうやったらもっと効率的にできるか、ってことに時間と労力、必要ならばお金を投資すれば2時間が30分になって最終的には得をする。みたいに。 これこそ守破離という物事の上達の基本に通じるのかあ
あと冒頭に書いた、「目の前の幸せを拾う」っていうのが今回の悩みどころで、結局自分が将来お金を稼げるようになってどこに目が行くかって言ったら「幸せ」だと思う。その時に自分の周囲にはビジネスとか効率を考えた人しかいなくて昔の友達が離れていたらとてつもない寂しさを感じること間違いなし。
自分がイタリアで学んできた価値観「人生を楽しむ」ということにも反すると思う。
書いてて答えが出てきたような気がするんだけど、
若い今は全てのことに必死になったらいい。でもそのバランスを考えようってことだよね。そしてそのバランスっていうのは自分一人では気づきにくいので誰か一緒に切磋琢磨できる人やメンターがいたら良いってことだよね。
なんでもしたら良い、でも捨てるものがないといくら時間があっても足りない。ぶっとびたいなら若いうちはいろいろ捨てる。そして自分に投資をガンガンしてお金も時間もエネルギーもフローしてる状態で回転数高く生きたいな。
そしてある程度のところまで行ったら、幸せを探究しよう。
幸せっていうのは他人との関わりの中で見つけられる というのは既に実感としてあるけど、それ以前に自分自身が出来上がっていたい。いつまでも同じ土俵にいたくない。
まあとりあえず言えるのは、目の前だけに見える現場仕事の庭師も少しずつ自己投資はしているだろうけど、もっと本気でやろうと思えば10年かかることも5年でできるようになると思う。
ケツに火がついた状態だったり、自営業で親が亡くなっていきなり20歳の息子に経営が回ってきたり、締め切りに間に合うかどうか!というところで出てくる土壇場強さにどれだけ出会って、それに慣れては前に進んでまた新しい限界を見つけていくことが最短で成長できる方法だと思う。
そんな機械滅多にないけど自分で作り出さないとコンフォートゾーンから抜け出せないよね。
作ろう!
日日是好日
責任ってねえええええええ 難しいよね
自分一人に対しても本気で向き合ってみると自分に対しても責任って持てないのかも。
「夢がある!」「こんな自分になりたい!」って心の底では思っていても言葉(意志)と行動が一致しないこともある。
まるで、明日までに出さないといけない課題を引き伸ばして徹夜して仕上げるみたいに。やろうと思っていてもスマホやテレビを見てしまったり。
まあでも、自分に対してそんなに厳しくなくても良い気がする。
いや、んん、これも難しい。
自分との約束を守らなければならない時は必ず来るし絶対にツケは来る。かと言ってかっちりしすぎても息苦しい。
そこは動中の静というか、淡々とこなして、慣れていくもんなのかな。
人は完璧じゃない、だからパートナーやコミュニティがあるのだろう。
彼女ができたり、結婚する ということはお互いに支え合っていくんだよね。
よく、”結婚して家庭を持つと動きにくくなる”って耳にするけど、なんとなくわかる気がする。
自分の責任を持てなかったり、自分の将来が確約されていないのに他人のことなんて考えてられない、のかもしれない。
それか順番が逆で、他人のことを考えられるから、自分を鑑みることができるのかも。
自分は経験が少ない分、パートナーがいること の目に見えない安心感だったりがわからない。
でも最近、恋って熱いなって思うし、この前自分の心が2年半ぶりに突き動かされた。
なんとも言えない気持ち。
そういえば安心感って言葉を使ったけど、自分はあんまり安心したくないな。
いろんな事に挑戦してみて砕けておきたい、砕ける事なしに安定なんて有り得ない。
んんんんんん、大人になるとどんどん自分の限界値を決めて安定していく。
だけどそんな歳になってもずっと砕けていたい。
恋ってなんだろう。自分の尊敬してる社会学者の宮台真司さんも 誰かと付き合うことっていうのは素晴らしいことだ 的なことを言っていたけど僕にはまだわからない。
それこそやってみないとわからないし、恋愛に関してはかなりタイムリミットがある。
休学を決めてからお茶を始めた、「昔の日本人、粋なことするなあー」ってつくづく思うし、本当にしみじみしてなんとも言えない、って体験を何度もさせてもらっている。
お茶関係で昨日、「日日是好日」という映画を見た。
直訳すると「毎日が良い日であるように生きなさい」ってことなんだけど人によっていろんな解釈があるとのことで、こんなのがある。
毎日が良い日となるように努力するべきだという教えの解釈、
良いこと悪いことという判断から離れて、今この時を生きることが好日につながるのだという解釈、
好悪の判断をせずにあるがままを良しとして受け入れるべきなのだという解釈があります。
映画を見ていて茶道を始めたからこそわかる初心者あるあるなどもあったが、それ以外にもこれから続けていく上で出てくる悩みも映されていた。
なんか一つの映画なんだけど、その映画の各シーンと自分の体験を照らし合わせたら自分の話だけで2時間はできそう。 いろんな感情をたった2時間で引き出してくれたり、新しい発見がある、映画っていいなあ って思った。
でも日日是好日の映画を見ていて”安定”という言葉が浮かんでしまったので、今の自分が嫌いな言葉と逆の、なんとも言えない不快気持ちが生まれて、今回ブログに書き殴りたくなってしまった。実際に書けないけど。
そういえば7月になったけど、6月の読書量3冊、かなりショック、学びは止めない。
このラスト10代色々楽しもう!
言わずに頑張るってカッコいい
人との共有や、自己成長のことですこし思いついた事がある。
最近の世の中はコロナ以前も含めて共有しやすい時代になっている。
美味しい食べ物の写真をアップしたりとか幸せを共有できるというのはあるけど、
その他にも、自分が今『どれだせ頑張っているか』『どんだけ辛い状況にあるか』も共有しやすくなっている。
自分は結構そういうことを衝動的に、無意識的にやりたくなってしまう。自己承認して欲しい力が湧いてきてしまう。
だから、僕は本を読み終わった後とかに写真を撮ってしまう。
どこか走りにいって、山に登って写真を撮りたくなってしまう。
決して写真を撮るために山に行くわけではないのに、ポケットにはスマホ、どこか綺麗な、映えるスポットはないかなと考えて、目の前に壮大な景色が広がっているというのに、スマホカメラ越しの風景に必死に目をやっている。
悲しい現実。
多分みんなもそう。
最近の友達のインスタを見てると大学生とか特に、
『レポート大変ですよストーリー』
『医療系の課題大変ですよストーリー』
『プログラミングっていうかなり難しい分野だけど頑張ってますストーリー』
こんなのがちらほらある。
僕もさっき例えに出したのとは別に、
『本読み切ったよおれ頑張ったよストーリー』
『zoomで100人集めて喋ったよ、おれすごいでしょストーリー』
とか、
ストーリーには出してないけど、"自分は今こんなに辛い状況に身を置いていて頑張っている!"ということを誰かに伝えたくなってしまう。
こんなことを冷静に分析したときに、『昔は』とか、その業界、分野での『本物の人』『流れを生み出す人』っていうのは絶対に、
物事にしっかり向き合っていて、なおかつ、
それを誰かに言おうとしないし、アピールしようとしていない。
『おれ頑張ってますよ』って言っている人ほど全然やってなかったりする。
『やってる自分かっこいい!』っていうことに囚われて、その類のストーリーを上げるまでのストーリーの文体、写真の写り方を考えたり、それを上げた直後に必ず次の行動に移せてないと思う。
これだけのストーリーを上げたんだから誰かが見てくれるだろうな、何か反応が来るだろうな、ってことに気がいって尚更だろう。
逆にいうと、そこまで含めて意識して、『おっ、持ってかれないように、次の行動をしよ、』って思えたらストーリーとか使ってみるといいかも。
それか、ストーリーを上げた“後"の行動を具体的に紙に書いて、間(魔)を空けないこと。
絶対に承認欲求に襲われて、そのままスマホにエネルギーも時間も捧げることになるだろう。
ーーーーー
そしてその他に思うこと。
結局周りの環境だと思う。
誰かお互いに高められる人のストーリーを見て触発されるならいいと思う。
『僕頑張ってますよ』『〜辛い、大変』っていったところで、アップしたのは何者でもなく“自分"
"自分"の価値観とか、"自分"の基準での頑張りを上げているだけであって、周りも鑑みないとただの自己満足で現状維持、全て自分の範疇にしか、頭で考えて、手が届く範囲にしか伸ばせない。
例えるなら、『受験を控えた高校生』
Aくん『いやぁ、おれ昨日4時間しか寝てねぇんだよ!』
Bくん『まじか!www 何してたん??』
Aくん『スマホでずっとウイイレしてて、 気づいたら3時になってたさ。それで勉強時間1時間wwww』
Bくん『いや、おれ30分だって!1時間やっただけでもすげぇよ!!』
みたいな、
"勉強は1〜2時間すればいいんだな"っていう基準が彼らの環境だから、6人グループの中で3人が10時間やってないと彼らの基準は変わらない。
成績のいい人っていうのはやたら自分が頑張ったことを言わないからどんどん差が生まれてく。
いきなり社会人になったときの成長具合にも繋がってきそう。
必死にsnsで『これだけ頑張った』っていう基準を出して、自分のフォローしている人の中で、自分のクラスの中で同じくらいだったら安心して、劣っていたらその基準まで持っていって、
結局ずば抜けてる人とか、職人とか、アーティストで1流の人たちは、自分の基準を言わないし、
基準とはなにか、存在すら考えたことないのかもしれない。その人だけの世界だから。
結構snsに対して否定的に書いたけど、まぁ自分もinstagramerとして投稿していくし、自分や他人が出す無意味なストーリーも見てしまうと思う。
でも自分がフォローしている人から刺激をもらうことも沢山あるし、メンター的な存在もある程度フォローしている。
snを見て時間を浪費して、やる気まで削がれて嫉妬心、ネガティブになるくらいなら、どうでもいい人はストーリーを非表示にしたほうがいいのかも、
すごい支離滅裂な文になったけど、結局必死に1日に向き合って、snsを触る時間すらないってのが一番だよね。
そして頑張っているってことを言うことすら恥ずかしいっていう気持ちでいたい。
頑張っているというよりは、自分を知らない人に対して、これから会っていくカスタマーとかに対して、『あ、この人の世界観いいな、こんなバックグラウンドを持っているんだ』っていう意味での自分のブランディングをするツールとして使っていくことが、これからの時代はsnsで顧客をゲットしていく社会で必要な活かし方かもしれない。
まぁ活かすにも、結局自分ができてないと、上っ面だけで、必死に投稿したり喋ったところで本物にならないのは事実。
コツコツ、でも前ばっか見ないでたまにはこういう風に文章にしてまとめたり、客観的にみていこう。
頑張ろう。