hironokangaegoto

雑記帳的に自分の想い、考えていることを吐き出していく

焼き鳥からのメッセージ

今日、午前中は教習所に行ってきてお昼に帰宅。親の庭仕事を手伝おうかな と思ったが結局昨日の疲れと意志の弱さから1時間ほど寝てしまった。

「なんでサボってしまったのか」という後悔の念はあったが、その感情とは正反対に「なんか頭がスッキリした」という喜びもあった。  もちろん”寝たから”という単純なことしか原因はないのだが。

 

そこで一つの本を手に取ってみた。

題名は「理解という名の愛が欲しい」 著者 山田ズーニー 

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本に対する第一印象として思ったのは

 

ー「なんだこのタイトル、病んでるの?自分はこういうのは求めてないし、なんか気持ちが弱い人に向けて書かれたすごく薄っぺらいような本かな

加えて著者の名前は”山田ズーニー

!!?ズーニー!? 
 ますますこの本に対する印象が悪くなってしまった。」

 

大げさに、批判的に誇張してその時の第一印象を著してみたが、まあ実際少なからずそんな感じに考えてしまっていた。

こんな風に第一印象でマイナスに捉えてしまう自分は良くないと思うし、これが社会一般的に言われる頭の固い人たちの考え方で ”井の中の蛙だが、井の外になにかより良いものがあることは知っていつつも考えるのがめんどくさい。むしろ井の外を知ろうとする蛙(読書や何か行動をする人間)や 井の外に実際に出かけている蛙(誰もしていないようなことに挑戦していく人間)の足を引っ張っていつまでも自分の環境を周りと同調させ安定を求めるようになってしまうと思う。

安定は大半の人が求めるものではあって、それは一つの考え方としてあるし当たり前のようなものではあるけど、跳ぼうとしてる蛙の足を引っ張らなくてもいいと思う。

引っ張るのならいつでも最初にいた井に戻れるようにしつつ一緒にジャンプしてみるとか、

実際に他の井に行ってみた人の話を聞いたり、

井から出てった彼らの体験談がまとめられた本(蛙の世界だとガリバー探検記的なもの人間界で言うと伝記とか自己啓発的なもの)を読むことかなと思う。

自分はまだ若いのでジャンプできるうちにいろいろなことを見聞きして実際になにかをやってみたい。

 

 

 

 

かなり話は逸れたけど、とりあえずこの本の情報は↓

内容説明

孤独の哀しみをのりこえて、ひらき、出逢い、心で通じ合う、自分にうそをつかないで、人とつながる、勇気のレッスン。どんなささやかな手段でも、自分の想いを表現し続けていくことでのりこえていける。「ほぼ日刊イトイ新聞」の人気コラム「おとなの小論文教室。」のベストコラム集。

目次

第1章 連鎖(連鎖;生きる実感;「おわび」の時間 ほか)
第2章 本当のことが言えてますか?(毒;話をしていておもしろい人;なぜか饒舌になるとき ほか)
第3章 人とつながる力(表現者の味方;スランプをのり切る―表現者の味方2;言えなかった「ひと言」 ほか)

著者等紹介

山田ズーニー[ヤマダズーニー]
文章表現インストラクター。岡山県生まれ。Benesse小論文編集長として全国5万会員を持つ小論文通信教育を企画編集、高校生の考える力・書く力に16年尽力。2000年独立。インターネットに「おとなの小論文教室。」連載。フリーランスとして慶應義塾大学他多数企業や大学で表現教育を展開(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

出版社内容情報

孤独の哀しみをのりこえ、人とつながる!「おとなの小論文教室。」ベストコラム集。居場所がなくても大丈夫。あなたには表現力がある

山田 ズーニー[ヤマダ ズーニー]
著・文・その他

 

 

 

読んだ感想としては、

「ああ 人間ってみんなおんなじようなことを考えるんだな」

ってことで、社会に出ていく上で出てくる不安や表現活動をする上での恐れ など自分だけじゃないんだなと本を読むことの重要性を感じさせてくれました。

 

その上で自分が印象に残ったところは

「生きる実感」という題で、

最近の若い人が求めている”生きる実感”とは、「歌でいうところの”サビ”の部分ではないか」と書いてあったところ。

「生きる実感が欲しい」 と言う時にもしかして「サビが欲しい」って言ってないですか?サビはサビの部分だけをつかもうとして、つかめたら、実感は薄い、もはやサビでは無くなる。

もっとも虚無が押し寄せ、なんにも起きない日常におしつぶされそうになっていた、あの時間こそ、もっとも自分は生きていたと思う。あれが、命をもやすということではなかっただろう? あなたにとって生きる時間とはなんだろう? P.23

 

落ち着いて考えてみれば そうだよね ってなるけど意外とこんなように一歩ひいいて考えることって難しいよね。

 

 

まあ、こんなようなことで共感を呼ぶことがいくつも書かれているので是非興味を持ったなら読んでみて欲しい。絶対に損はしないし、逆に少し感動するかもしれない。

 

 

 

↑に”印象に残ったこと”と書いたけど、一番心に響いたことは意外にも本文が全て終わってからの「あとがき」にあった。 以下

あとがき 居場所をうしなってもだいじょうぶ!

愛に飢えた時、本や音楽など作品からも愛はチャージできる。

この発見が私に取って一生の希望となった。胸を揺さぶる映画、しみいるようにおいしい料理、作り手が作品に込めた愛をコツコツチャージし、分配し循環させたりもしながら、人はどうにかこうにかしのいでいける。
教えてくれた読者、親の愛に恵まれず、親もまた親の愛を知らなかったというメールをくれたSさんにも感謝だ。

 

というところの一文。

 

「しみいるようにおいしい料理」だった。

 

笑っちゃうようだけど、一番自分の心に響いて、一度本を置いて、ごろっと畳に大の字になった。

そして何故か手のひらがじんじんしてきて、なんとも言えない気持ちになった。

 

ここ最近の自分の周辺で起こっている悲しい出来事、頭を悩ませても全然解決しない問題(数学じゃなくて)など、自分の頭の中の片隅にあるけど、大きくて、飛び回ってはどこかにいって、でもほっとけなくて、消化できない、
でも毎日何かすることがあって余計それらのことを考える暇を与えられていなくて。

そんななか昨日この本を買いに行ったついでに、いつも相談してるアル人に会ってきた。

その人は僕と僕を取り巻く今の状況を一番よく知って、理解していて、自分に対して「一人で抱え込むとあなた自身が潰れてしまうよ」と言ってくれる。

抱え込んでる気はしていないので昨日も「抱え込まないですよ〜」って笑いながら言った。

 

その後、焼き鳥屋に行こう!と言ってもらい一緒に食べて、申し訳ないことに奢ってもらった。

つくね、ハツ、ヒナなどを待っている間もアレラノ(ここ最近の自分の周辺で起こっている悲しい出来事、頭を悩ませても全然解決しない)問題について気楽に、少し笑いながら話していた。

 

確かに「今の状況は深刻だけど、自分はそれすらも人生の一部として楽しめている」と今このようにタイピングしながらも思っているし、焼き鳥屋でもそうだった。

 

でもあの一瞬は上記の考え方すらも頭に浮かんでこなかった、もはや存在すらも忘れた。

 

焼き鳥が目の前に運ばれて、一緒に行った人に「まあ、よけっこん考えずに食べな」
と言われて、焼き鳥を食べたときだった。

 

 

「めちゃくちゃおいしい」っていうただただ単純なことだった。

”おいしい” それ以外の何者でもない、肉を串に刺してタレをつけて焼いたものにひたすら感動して、後ろに仰け反った。もはや写真を撮るのも忘れていたし、そんなことは熱々な焼き鳥に対して失礼でもあった。

 

なんでこんなに美味しく感じるんだろう?

まあ多分いい肉をいいタレにつけて炭火で焼いた から必然的なのかもしれない。

でも、それだけでは説明が付かないくらい本当に感動するほど美味しかった。

 

何の要素がおいしい焼き鳥を更においしく、格別なものにしているか、分かった気がする。

 

 

 

それは「愛不足」だ、イタリア語で言うとamore。

 

・最近は親の作る料理から愛を感じなかった。
正確に言うと自分が〜ながらで食べてしまって、感謝することをせずに食べ物から伝わってくる愛を受け流していたから。

 

・他にも家族との会話で愛を感じなかった。
それも正確に言うと、受け流していたかもしれない。

 

そもそも自分が誰かに愛を渡していないのに貰うことができるのは幼少期だけで、そのエネルギー的なものをうけとるには”循環”させないといけないんだなって、それも考えてみたら当たり前だけど中々考えつかないことだよね。

最近の自分は確かに家族に対して愛のある行動や言動をしたか と改めて考えてみると、確かに相手のことを想って愛を与えていなかった。
一方自分は口に出さないだけで、自分勝手に、潜在意識的に愛を欲していた。

 

 

 

だから昨日の焼き鳥屋さんで美味しかったのは、焼き鳥自体が美味しかったのはもちろん、

おいしかった理由は3つあると思った。

  それは

  1. 日常に巻かれている家族からの愛を受け流していたことと、アレらの問題を考えることによって、気づかないうちになにか心の中に穴が空いていた→愛が不足していた
  2. 焼き鳥屋のお兄さんと相談したある人が自分に対して「おいしいものを食べて欲しい」と心の底から思ってくれたということ→愛を込めてくれた
  3. 無心で食べ物と向き合った→愛をしっかりと受け取った

 

愛 愛って書いてて自分でも少し気味悪いけど(笑) そういうこと。

 

 

 

たった一本食べ、それっから2本3本と食べてるうちに感動した。

そして今日読んだ「理解という名の愛が欲しい」という本によって色々なことに気がつかされた。

 

それが自分へのヒントとなり解決につながる糸口になった。

 

この本に書いてある通り、テレビや音楽、食べ物など、日常に転がってるものは誰かが一生懸命エネルギーをかけて作ったものだから、それを受け取るような余裕を持つことが大事だなって感じた。
だから今晩、テレビでやっていたエンタの神様の漫才もいつもなら”ながら”で見てるところ、「芸人さんが考えに考えて作り出したエネルギーの結晶のような一つの作品」として考えて全力で見て、笑った。 

意外とスッキリした。スマホを置いて一つのことと向き合ってみると案外日々の生活が豊かになって、ちょこっとした幸せをcatchできるかも

 

 

まあ、こんな平日の午後も悪くないね。楽しもう!